ハワイには、王国時代に8人の王が存在していました。
カメハメハ大王から、8代目の唯一女性の国王であるリリウオカラニまで、19世紀にハワイを統治した8人全てをご存知でしょうか?
・カメハメハ大王はどんな功績を残した人だったのか?
・カメハメハは何世まで続いたのか?
・当時日本へ訪れた国王もいた!?
・アロハオエは国王が作曲した!?
など、意外と知られていないハワイの8人の王について、それぞれの功績と共にご紹介します!
ハワイには、王国時代に8人の王が存在していました。
カメハメハ大王から、8代目の唯一女性の国王であるリリウオカラニまで、19世紀にハワイを統治した8人全てをご存知でしょうか?
・カメハメハ大王はどんな功績を残した人だったのか?
・カメハメハは何世まで続いたのか?
・当時日本へ訪れた国王もいた!?
・アロハオエは国王が作曲した!?
など、意外と知られていないハワイの8人の王について、それぞれの功績と共にご紹介します!
1778年、英国海軍のクック船長一行が、3回目の太平洋探検でハワイ諸島を発見したことにより、島々は西欧の航海者の知るところとなり、その影響で各島に存在していた首長間の争いに変化が起こります。
その中で勢力を持っていたのがハワイ島のカメハメハ一世。
西欧人の知恵や武器も利用し、それまで別々の首長が治めていたハワイ8島を統一し、王国を創り上げました。
英国のクック船長のハワイ諸島発見、それに続く西欧人の来島とその助力が無かったら、カメハメハ大王による8島統一と王国の成立は、成し遂げられなかったかもしれません!
1795年にはハワイ島からマウイ島、オアフ島までがカメハメハ大王の手中に納まり、1810年にはカウアイ島まで8島全てが統一されました。
ホノルル・ダウンタウンにあるイオラニ宮殿前のカメハメハ大王像の台座には、大王ゆかりの故事が刻まれていますが、その絵の一つにはクック来島時の光景が描かれており、西欧人との初の接触が、カメハメハにとって如何に重要な出来事であったかが分かります。
1819年にカメハメハ大王(一世)が他界し、長男がカメハメハ二世として王になりました。
カメハメハ二世の名はリホリホ。
ハワイ語で「とても熱い」や「激しい」という意味を持ちます。
リホリホはカメハメハ大王の死後約2週間後に、ハワイ島カイルアで2代目の王になりました。
リホリホが王になる頃まで、ハワイには昔から続いていた「カプ」という社会規範があり、その一つに男女は共に食事はしない習慣がありま した。
ところが、カメハメハ大王の妻であるカアフマヌが二世にカプ制度を止めるように求め、当初彼はそれを受け入れなかったものの、後にカイルアで他の王族の前で女性と席を共にして食事をしました。たちまちこのニュースは全島に広まり、カプ制度が崩壊しヘイアウ (祭祀場)と神々の木像が破壊されてしまう結果になりました。
カアフマヌや母の影響もあり、カプシステムを止め、キリスト教への道を開く結果になりました。
カメハメハ二世は1823年11月 にカママル妃と共に英国の捕鯨船に乗りロンドンへ向けての航海に出ました。しかしロンドンで、カママルは7月8日、王はその6日後に、はしかと思われる病気で命を落としました。
長い間外界から閉ざされていたハワイには、西欧人の来島とともに多くの病気もはびこるようになり、ネイティブハワイアンの急激な人口減少が起こりますが、二世の死はそれを象徴するような出来事でした。
二世の弟、三世の名はカウイケアオウリ。
三世は兄の20代での死を受けて、10歳の頃若くして王になり最長の30年間ほど在位していました。
三世がハワイ王国を統治していた王国中期に王国の経済を支えていたのは捕鯨。
しかし、国としては問題山積の時代でもありました。
その一つが、ハワイアンの人口減少の問題。
西欧人の来島と共にもたらされた病気の影響に加え、米西海岸はゴールドラッシュに沸き、人々のカリフォルニアへの移住が人口減に拍車を掛けました。
そしてもう一つ、捕鯨船に乗り込み帰還しないハワイアンの男性が増えたのです。
ネイティブハワイアンの人々は、ハワイ近海にも現れた鯨を海の神「カナロア」の化身として崇め捕獲することはしませんでした。鯨に関する物語やチャント(詠唱)には鯨の重要性と敬意が語られています。
しかし押し寄せる西欧化の時代の中で、ハワイアンの男性は船乗りとしての技術を買われ、捕鯨船の船員として採用されました。そして飛び跳ねる鯨によって荒波の中に投げ出され、帰らぬ人となることも多々あったのです。
カメハメハ一世が築いた専制君主国ハワイは、カメハメハ三世の時代に立憲君主国へと変貌を遂げ、この時代に首都をマウイ島ラハイナからオアフ島ホノルルに遷都し、憲法を制定、宗教の自由化(キリスト教の広がり)、土地所有権を認めるなど、ハワイを急速に近代化させた三世は、同時に疫病による先住ハワイアン人口激減や西洋諸外国勢力との摩擦などの問題と直面しました。
そしてハワイはカメハメハ大王の孫の時代へと引き継がれていきます。
カメハメハ四世からカメハメハ大王の孫の世代に入ります。
カメハメハ四世の名はアレキサンダーリホリホ。
1855年1月、王位に就きました。
カメハメハ三世の養子(ハナイ)として幼少の時を過ごし、ロイヤルスクールで米国人宣教師による英語による教育を受けました。そして、15歳の時に後にカメハメハ五世となる兄「ロット」と当時の大蔵大臣であったジャッド博士と共に欧州へ旅をしています。
フランス戦艦が破壊したホノルル港の保証をフランスに求めるための渡航でしたが、交渉は不成功に終わっています。
しかし英国では歓迎を受け、英国王室には好感を抱いたようです。
欧州からの帰途、ワシントンDCで米国大統領にも会いましたが、その時ワシントンとニューヨーク間の列車でアフリカ系米人と間違われ、コンパートメントから退去させられそうになるという経験をし、これがアメリカへの強い偏見として四世の心の中に残ったと言われています。
1856年、四世はカワイアハオ教会で英国の血が四分の一流れている エマ・ルークと結婚。
四世は、イオラニ宮殿の他に6軒の私邸を持ち、「エマ王妃夏の離宮」はそのひとつで、エマの叔父ケオニ・アナより譲り受けたものです。
喘息の持病のあった四世はこの高台に建つこの家によく静養に行っていましたが、最愛の息子アルバート王子を4歳という若さで亡くした翌年の1863年、王が29歳でこの世を去ってからは、エマ王妃がこの家で暮らしていました。
【カメハメハ四世と日本との関係】
1860年、日米修好通商条約批准のため、日本の使節団がサンフランシスコに向かいました。これに随伴した咸臨丸はサンフランシスコからの帰路、石炭と水の補給のためにホノルルに寄港し、代表の木村摂津守喜毅が四世に謁見。その際に日本からの移民受入れについて王が言及しています。
通訳を務めたのはジョン万次郎でした。
ハワイ王国中期の経済を支えていた捕鯨は、1959年にペンシルバニアで石油が発見されることにより鯨油の価格が暴落し、廃れていきます。それに代わり、カメハメハ三世の時代から始まり、拡大してきた産業が砂糖生産でした。王国はそのための労働力を必要とし、移民を受け入れる時代になろうとしている頃だったのです。
四世の兄、ロット・カプアイヴァがカメハメハ五世として王に。
1863年、四世の死を受けてハワイ王国の五代目の王になりました。
五世の時代には、王国の経済に変化が生じます。
1771年にはベーリング海で33隻の捕鯨船が氷に閉ざされる事件が起こり、これが切っ掛けとなり捕鯨の盛んであった時代は終わりを告げ、砂糖産業が国の第一産業になりました。
五世は王になってすぐ、砂糖農園での労働力不足に直面します。
カウアイ島プリンスビルの農園主でもあった外務大臣ロバート・ワイリーの勧めもあり、1864年に移民局を創設。
砂糖にかかる関税を無くす為、米合衆国との互恵条約締結を進めようとしますが、締結には至りませんでした。
四世同様に米国との関係には一線を置き、併合されないように神経を尖らせていたことも、条約締結に至らなかった要因の一つだったと言われています。
また、五世の時代には、米国との間の海運がより便利になります。
米西海岸とハワイの間に蒸気船の定期航路が運航が開始、その前には「トムソーヤの冒険」を書いた小説家マーク・トゥエインがハワイを訪れ、その様子を新聞に投稿し、本も書いているため、米本土でのハワイへの関心も高まりつつあったのかもしれません。
五世は、自国民にも西欧人に対しても厳しい王だったと伝えられています。
カメハメハ大王の孫として、ロイヤルスクールで英語の教育を受けていたものの、会話はハワイ語で通し、議会でもハワイ語を使い、英語の通訳を置きました。
カメハメハ大王に近い強い性格の持ち主だったとも伝えられていますが、1871年に、6月11日を祖父である大王を記念する「キングカメハメハデー」を制定したのも五世でした。
王は亡くなる前の病床に、カメハメハの末裔にあたるビショップ氏の妻、バニース・パウアヒ王女を呼び後継を頼みますが、その望みは受け入れられず、1872年に後継者を選ばずに42歳で亡くなりました。
カメハメハ大王直系の王の時代は五代で終わりを告げました。
ハワイ王国六代目の王の名は「ウイリアム・チャールズ・ルナリロ」。
ルナリロの母「アウヘア ケカウルオヒ」は、カメハメハ大王の姪にあたり、カメハメハ直系の孫にあたる五世の亡き後は、ルナリロが王家の血筋の中で一番高位に位置する人になりました。
カメハメハ五世が後継者を指名せずに他界したため、ルナリロは当時の憲法の定めるところにより、王家の血の流れる人の中から議会の選挙で選ばれた初めての王となりました。
国王選挙の対立候補は、次の王となるカラカウアでした。
ルナリロ王はリベラルな考えの持ち主で、高い教育を受け音楽や文学にも造詣が深かったとのこと。
1864年に五世が制定した憲法を、より民主的はものに修正しようと試みます。結果、新憲法は議会を通過したものの、自身の早すぎる死により現実のものにはなりませんでした。
1873年1月1日に民衆による投票が行なわれ、ルナリロは過半数の票を獲得。
そして1月8日には、王国憲法に則って議会による初の選挙が行なわれ、ルナリロが全票を獲得してカラカウアに勝利し、翌日にカワイアハオ教会で就任式が行われました。
しかし健康を害し、わずか1年と25日の短期間在位の後、1874年2月に39歳の若さで肺結核を患い、亡くなりました。
カメハメハ三世の治める1850年代に盛んであった捕鯨は、石油の発見や鯨油の価格下落などの影響を受けて、その後衰退し、ハワイ王国の経済は低迷していました。ルナリロ王は米国との互恵条約を結び、砂糖にかかる関税を撤廃しようと試みますが、その条件として王の示した真珠湾を米国に使用させる案にネイティブ・ハワイアンの人々が反対し、条約締結は実現しませんでした。
「カラカウア」と聞くと、ワイキキの通りの名を思い浮かべる方も多いかと思います。
ハワイ王国七代目の王の名で、カラカウア大通りとクヒオ通りの分岐点に王の銅像が建っています。
六代目の王、ルナリロが後継者を指名せずに亡くなったため、議会で選挙が行なわれ、カラカウアはエマ王妃に大差で勝利し、ハワイ王国7代目の王になりました。
カラカウアは、米国との互恵条約締結を成功させ、砂糖産業で国家の隆盛を成し遂げた王ですが、在任中に九ヶ月と九日間にもわたる長期の世界一周旅行をしたことでも知られています。
現職外国元首の初来日として丁重に迎えられ、横浜港では、二十一発の礼砲と、ご自身が作詞したハワイ王国の国歌「ハワイ ポノイ」の演奏で歓迎を受け、その後、明治天皇にも謁見しハワイへの日本人移民受入れを申し出て、1885年に始まる官約移民のきっかけを創りました。
カラカウア王の時代のハワイ王国は、砂糖産業により益々繁栄。
しかし同時に西欧人が多くを占める経済界の力も強まり、その圧力の下でカラカウアは王権を制限する改正憲法に署名を強いられ、王の権力を内閣に分散させられてしまいます。
その後、米国への併合を求める親米派の動きが強くなり、王権を維持するのが難しくなっている最中に、王国議会閉会の日に王の様態が急に悪くなり、米国で静養することに。米国の賓客として米国海軍の軍艦チャールストン号でサンフランシスコに到着しますが、翌年1891年1月20日に客死。
妹のリリウオカラニが宣誓をして、第8代目の女王になりました。
リリウオカラニ自身は、兄の葬儀が終わってから就任すべきと考えていたようですが、周囲の状況はそれを許しませんでした。
兄であるカラカウアの後を継いで8代目の女王になったリリウオカラニ。
兄が王であった時代の後半から、女王として国を治めていた2年間、その後ハワイが王国から共和国になった時代と、波乱の連続でした。
2年の在位中、西欧人中心の経済界とハワイアンの人々との対立は更に激化。
米国への砂糖輸入への関税が撤廃されたため、米合衆国とハワイ王国との間で結ばれていた互恵条約がその意味を失い、砂糖農園所有者の間では、王権が維持されることにより自分達の土地が没収されるのではないかとの警戒心も広がり、親米派や米国への併合を良しとする力が強くなっていきました。
そのような状況下で、1893年1月、リリウオカラニは1864年憲法に近い新憲法を発布しようと試みますが、一部の大臣の同意を得られず、退位を迫られます。
イオラニ宮殿での幽閉
王国が消滅し、国がハワイ共和国となっていた時代の1895年、王政復古を求める武装蜂起が起きました。
女王の邸宅の庭から武器が発見されたという理由で、リリウオカラニは共和国政府により反逆罪の罪で逮捕され、裁判では犯罪隠匿の罪に軽減されたものの、イオラニ宮殿での8ヶ月幽閉を宣告されます。
宮殿を正面から見て2階右端の角が、女王が幽閉されていた部屋にあたります。
幽閉中、本やギターの部屋への持込みは制限されず、既に作詞してあった「アロハ・オエ」はこの間に作曲したものとも伝えられていますが、この曲はオアフ島北部の牧場での妹のリケリケの恋物語を歌ったもので、幽閉以前に作られていたとの説もあります。
大統領が民主党のクリーブランドから共和党のマッキンリーに代わることにより米国の政策が変わり、1898年7月7日にマッキンリー大統領がハワイの併合法案に署名。
その後イオラニ宮殿でハワイ国旗が降ろされ、星条旗が掲揚されました。
そしてハワイは1900年6月4日に正式に米合衆国の準州になります。
その間、女王はホノルルで余生を過ごし、1917年11月11日にこの世を去りました。
今回はハワイ王国時代に存在した8人の王を纏めてご紹介しました!
少し長くなりましたが、まだまだ彼らの功績はここでは語りつくせない程あります!
ハワイについてもっと知りたい方、ハワイには何度も行ったことがあるけれどハワイの歴史についてはまだあまり深くご存知ではないという方、夏休みの自由研究にハワイの歴史を学びたいという方など、ぜひ続きはハワイ州観光局公式ラーニングサイト「アロハプログラム」で、深堀りしませんか?
今回の「ハワイ王国時代の8人の王」につてのコラムをシリーズ化しました!
ぜひご覧くださいね!