先週に引き続き、ハワイ王朝第7代君主だったカラーカウア王の妃、カピオラニ王妃の作品「KA IPO LEI MANU」というラブソングが、なぜ、クプナダンサーに踊っていただきたいか?について書きます。
曲の対訳は、愛する伴侶であるカラーカウア王を鳥に例えて、切々に優しい愛を歌っていますが、カピオラニ王妃の人生のBEHIND STORYを垣間みる事により、もっとこの曲に感情移入をすることができるでしょう。
カピオラニ王妃は、ハワイ島ヒロ出身。お誕生日は1834年12月31日。 フルネームは、Kapiʻolani Napelakapuokakaʻe 。最初の結婚は、18歳の時。52歳のベネット・ナーマーケーハーに、3番目の妻として嫁ぎますが、26歳の時に死別。その後、デビッド・カラーカウアと出会い、おそらく、電撃的な恋愛をし、カラーカウアが、王様に就任する9年前の1863年12月8日、29歳の時に再婚をします。
そして、親が決める結婚が主流であった時代、かなり、レアな「大恋愛→結婚」の相思相愛カップルだったと推測されます。というのは、彼らの挙式の1週間前の11月30日に、カメハメハ4世の崩御。当時の情勢を考えると、二人ともロイヤルファミリーのメンバーですし、加えて、カピオラニ王妃の前夫は、崩御したカメハメハ4世の妃、エマ王妃の叔父という親戚関係から、本来ならば、結婚式は延期となるはず。おそらく、世間の批判の種になったカップルとなってしまったかも知れません。
文献によると、カピオラニ王妃の性格はおとなしく、どちらかというと内向的だったようですので、性格が真逆の快活でイケイケGOGO気味のDAVID KALAKAUA王を心から支え、生涯、非常に仲むつまじいご夫婦だったようです。
「Kulia I Ka Nuʻu(Strive for Highestより高い希望に向かって努力する)」という彼女のモットーに裏付けられるように、民衆のために大きな偉業と成し遂げた強い意志の持ち主。モロカイ島カラウパパに隔離されたハンセン氏病患者の生活水準をあげるためにチャリティを頻繁に行ったり、外から入ってきた疫病によりネイティブハワイアンの人口の極端な減少に危惧し、現在のカピオラニウェメンズ&チルドレン病院(女性と子供ための病院)の前身であるカピオラニ・マタニティ・ホームの設立のための資金集めに東奔西走し、1890年6月14年に開院にこぎつけました。
おそらくそんな人生の希望に溢れている年の結婚記念日に、サンフランシスコに療養に出かけた旦那様を想い、作ったラブソング。ハワイに帰ってきたら、延期していた結婚27年目の記念日のお祝いのギフトに贈るつもりだったのかもしれません。
このような王妃の人生を想像しながら、是非、人生を学んでいらっしゃるクプナのフラダンサーのKA IPO LEI MANUを拝見したいと思います。
写真は、イオラニ宮殿内の王妃の寝室。ベッドカバーには王妃のエンブレムが縫い付けられています。
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