ハワイ日系移民の歴史

2024.05.26

移民の背景

  • 1849年には米合衆国とハワイ王国との和親条約が結ばれ、ゴールドラッシュに湧く米国西海岸への輸出増加が砂糖生産を促進
  • 米国への砂糖輸出拡大の裏には南北戦争(1861年から65年)による南部からの砂糖販売が途絶えたことも大きな要因
  • 砂糖農園での労働力確保と病気などによりハワイアンの人口減少。1820年のハワイアンの推定数値13万人が1850年には8万人まで落ち込み
  • ハワイ王国は1852年に外国からの移民の受入れを決定し、中国から初の移民が来島
  • 当時の主要な移民を年代順にあげると、中国、日本、南洋諸島、ポルトガル、ドイツ、ノルウェー、スペイン、プエルトリコ、朝鮮半島の順
  • 1864年にはカメハメハ五世が移民局を発足

日系移民

元年者

  • 漂流民ではなく自分の意思でハワイに渡った最初の日本人の一団は後に「元年者」と呼ばれる
  • 目的はハワイの砂糖農園への入植、3年契約後は日本へ帰国、ハワイに残留、アメリカ本土へ渡航する者と分かれた
  • 1868年 元年者横浜港から150人(人数は諸説あり)、英国船籍の帆船サイオト号でホノルルに到着
  • 1881年(明治14年)東京で明治天皇に謁見したカラカウア王が移民を要請

※年号が慶応から明治に移行する幕末の混乱と戊辰戦争の中での出来事で、明治政府はこの移民を正式に認めなかった。募集時の仕事の内容説明が正確でなかったり、砂糖農園での労働には向かない人も多く含まれていたり、翌年40名ほどが帰国し、約100名がハワイに残った。
※元年者の8年前の1860年(万延元年)、日米修好通商条約批准のためのサンフランシスコからの帰路、ホノルル港に寄港し、5月25日に使節団の木村摂津守喜毅、勝鱗太郎等がカメハメハ四世とエマ王妃に謁見。通訳はジョン万次郎。その際、日本からハワイへの移民の要請。

官約移民

  • 1881年(明治14年)、ハワイ王国7代目カラカウア王が移民の調査を目的に世界一周の旅に出る。東京で明治天皇に謁見したカラカウア王は日本からハワイへの移民を申し出て、4年後に官約移民が開始
  • 1885年(明治18年)に明治政府が正式に認めた「官約移民」が開始され、同年2月には汽船シティー オブ トウキョウ号で945名ほどが到着
  • 1893年にハワイ王国が終わりを告げるまでに、政府間で約2万9000人余りの日本人移民が移住。オアフ島ばかりでなく、各島の砂糖農園に入植。
  • ハワイの砂糖産業が隆盛を極める中、王国に代わりハワイが共和国として存続した5年間は「私約移民」
  • 官約移民以降は、広島、山口、熊本、福岡県にとどまらず、福島や沖縄などからも砂糖農園での労働目的での移民が増加

私約移民

  • ハワイの砂糖産業が隆盛を極める中、王国に代わりハワイが共和国として存続した5年間は「私約移民」

自由移民

  • 1900年(明治33年)から1907年(明治40年)は米国の法律適用の下で「自由移民」の時代となり、この間に約7万1000人が移住し、一方でハワイから米本土への再移住の数も増加
  • 沖縄からの移民は1900年から始まる

呼寄せ移民

  • 1908年から1924年(大正13年)は「呼寄せ移民」の時代となり、この間に更に約6万1千人が来島し、総計で22万人ほどの日本人がハワイに移民として渡った
  • 1920年(大正9年)には、ハワイ準州の人口の中で日系人の占める割合が全体の42.7%に上る
  • 1924年(大正13年)に米国で所謂排日移民法が制定
  • 1918年(大正7年)の日本国総領事館の調査ではハワイにおける日系人口は10万人を超え、1924年(大正13年)の砂糖農園における日系人口は全体の70%に上る

(出典:アロハ年鑑2023)

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