1890: 8月24日、デューク ハラプとジュリア パオア カハナモクの間に生まれた9人の子供の長男としてホノルルに生まれる。1869年にイギリスのデューク オブ エジンバラ(エジンバラ公爵)がハワイを訪れたことに敬意を表し、バーニース パウアヒ ビショップ王女により父は名付けられた。デュークは父の名を継ぎ、家族はデュークをパオアと呼んでいた。1893年に家族はワイキキのカリア(ワイキキ西部)に移る。
1911: ホノルル港で初めて開催されたA.A.U.(アマチュア アスレチック ユニオン)水泳大会に出場、フリースタイルで3つの世界記録を打ち破る。
1912: アメリカ代表水泳選手としてストックホルム オリンピックに出場。100m自由形でハワイにとって初となる金メダルを、4×200m自由形リレーにて銀メダルを獲得。アメリカ東海岸へサーフィンを広める。
1914–15: オーストラリアとニュージーランドに赴き、アロハ精神と共にサーフィンを広める。
1917: ワイキキにて、スケッグもリーシュもない一枚板の木製サーフボードで巨大な波に乗り、1.8㎞もの距離を移動。1918年には、第一次世界大戦で戦うアメリカ軍の士気を高めようと、30ものアメリカおよびカナダの都市で開かれた水泳大会で泳ぎを披露する。
1920: ベルギーで開催されたアントワープ オリンピックにて、100m自由形と4×200m自由形リレーで金メダル獲得。サーフィンをオリンピック種目の一つに加えるよう勧める。
1924: パリ オリンピック100m自由形で、“ターザン”役の俳優としても活躍した選手、ジョニー ワイズミュラーに勝ち銀メダルを獲得。
1922–30: ロサンゼルスに住む。俳優となり、脇役として約30本の無声映画に出演。1925年、カリフォルニア、コロナ デル マー沖で起きた船の転覆事故で漁師が海に投げ出され、それを見たデュークは、勇敢にもサーフボードで8人の命を救う。
1932: ロサンゼルス オリンピックにて、アメリカ水球チームの補欠選手として出場し、銅メダルを獲得。これがデュークの最後のオリンピック出場となる。オリンピック選手として20年にも及ぶキャリアは、当時は最長だった。
Duke Kahanamoku(R), Malama Pono Inc.